近世日本の教育の歴史

近世日本の教育の歴史

近世は、一般的に、永禄11年(1568)から慶応4年(1868)までの期間を言いますが、その間、わが国の教育は大きな発展をとげました。

足利学校は、自由で開放的な学びと自学自習の精神で、全国から多くの学徒が集まり、その名声は遠くヨーロッパにまで伝えられました。

江戸時代に入り、平和な時代が到来すると、諸藩において、水戸市の弘道館に代表されるような藩士の子弟を教育する藩校が盛んにつくられるようになるとともに、備前市の閑谷学校を嚆矢とする庶民のための学校も数多くつくられました。

また、日田市の咸宜園に代表されるような民間の教育施設である私塾、寺子屋なども日本全国に数多くつくられ、国民の識字率は高くなり、幕末日本に訪れた多くの外国人を驚かせました。

幕府も、昌平坂学問所(現湯島聖堂)をつくり、多くの官僚を育てました。

近世の教育の特徴は、主に儒学(朱子学)を基本とし、学問だけでなく、礼を重んじる教育を行ったことです。

これら学校の普及による国民全体の高い教育水準が、明治以降の日本の近代化の原動力となり、現代まで続く礼節を重んじる国民性として受け継がれています。

なお、下記に、近世の教育施設で、国指定文化財となっている主な教育資産を紹介します。

有備館(宮城県大崎市)

有備館(宮城県大崎市)

元禄4(1691)年に岩出山伊達家が創設した仙台藩の郷校(学)です。正徳5(1715)年には回遊式の大名庭園が整備されました。茅葺きの書院造の建物が現在までその姿を伝えています。また、庭園内には300年以上の樹木があり四季を通して緑や花などで庭の変化を楽しむことができます。
昭和8(1933)年に庭園とともに国の史跡および名勝に指定されています。

致道館(山形県鶴岡市)

致道館(山形県鶴岡市)

文化2(1805)年に庄内藩第7代藩主酒井忠徳が創設した藩校です。文化13年(1816)年に現在の位置に移転しました。徂徠学を教えの中心としていました。東北地方に現存する唯一の藩校建築で、孔子廟、講堂、御入間、表御門などの建物とその敷地一帯が昭和26(1951)年に国の史跡に指定されています。

文武学校(長野県長野市)

文武学校(長野県長野市)

嘉永6(1853)年に松代藩主真田幸貫が水戸の弘道館にならって建設を計画し、9代藩主・幸教の時代に完成した松代藩の藩校で、安政2(1855)年に開校しました。竣工当時の建物の多くが残っている貴重な学校です。昭和28(1953)年に国の史跡に指定されています。

進徳館(長野県伊那市)

進徳館(長野県伊那市)

万延元(1860)年に高遠藩最後の藩主である内藤頼直が創設した藩校です。財政難のため、高遠城内三の丸にあった内藤蔵人の家老屋敷を改造して使用されました。文学部と武学部の2つの学部が設置され、和学、漢学、馬術、剣術、砲術など文武両道の向上を図り、林大学頭により進徳館と命名されました。
昭和48(1973)年に国の史跡に指定されています。

湯島聖堂(東京都文京区)

湯島聖堂(東京都文京区)

元禄3(1690)年に林羅山が、上野忍が岡の私邸内に建てた忍岡聖堂「先聖殿」に代わる孔子廟を造営し将軍綱吉はこれを「大成殿」と改称するとともに、付属建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改めました。

寛政11(1799)年には、学問所全体が竣工となり、寛政異学の禁により聖堂の役目は見直され、寛政9(1797)年には林家の私塾が、林家の手を離れ、幕府の官立の昌平坂学問所となりました。
大正11(1922)年に国の史跡に指定されています。

崇廣堂(三重県伊賀市)

崇廣堂(三重県伊賀市)

文政4(1821)年に津藩第10代藩主藤堂高兌が藩校である有造館の支校として建築させた藩校です。「崇廣堂」の名は、『書経』周官の「功崇惟志、業廣惟勤」からとられたものです。昭和5(1930)年に国の史跡に指定されています。

鈴屋(三重県松坂市)

鈴屋(三重県松坂市)

元禄4年(1691)年に本居宣長の祖父が隠居所として建てたものを移築したもので、宣長は2階を書斎に改造し、鈴屋と名づけました。宣長はここで町医者を営むかたわら、『古事記伝』の執筆をはじめとする日本古典の研究や後学の指導に取り組みました。明治42(1909)年には、保存のため松坂城跡の現在地に移築され、移築前の跡地とともに、昭和28(1953)年に国の特別史跡に指定されています。

藤樹書院(滋賀県高島市)

藤樹書院(滋賀県高島市)

慶安元(1648)年に日本における陽明学の祖とされる中江藤樹が創設した私塾です。
 当時の建物は明治13(1880)年の大火で近在の農家34戸と共に焼失しましたが、明治15(1882)年に再建されました。大正11(1922)年に国の史跡に指定されています。

古義堂(京都府京都市)

古義堂(京都府京都市)

寛文2(1662)年伊藤仁斎がその生家で開いた私塾です。別名堀川学校とも呼ばれていました。塾生数は、仁斎が数えただけでも3,000人を数えたといわれています。大正11(1922)年に国の史跡に指定されています。

適塾(大阪府大阪市)

適塾(大阪府大阪市)

天保9(1838)年に蘭学者・医者として著名な緒方洪庵が大坂・瓦町に開いた蘭学の私塾です。正式には適々斎塾という名称で、適塾や適々塾とも呼ばれています。大村益次郎や福沢諭吉など幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く輩出し、現在の大阪大学の源流の一つとなりました。昭和16(1941)年に国の史跡に指定され、昭和39(1964)年には建物が国の重要文化財に指定されています。

旧岡山藩藩学跡(岡山県岡山市)

旧岡山藩藩学跡(岡山県岡山市)

寛文9(1669)年に岡山藩主池田光正が創設した日本最古の藩校で、江戸幕府が開いた湯島聖堂よりも21年早く、国学、岡山学校とも呼ばれました。この藩校では朱子学が中心に教えられ、廃藩置県となる明治4年(1871)年まで存続しました。大正11(1922)年に国の史跡に指定されています。

廉塾(広島県福山市)

廉塾(広島県福山市)

天明元(1781)年頃に儒学者・漢詩人である菅茶山が開いた郷校です。当初は、黄葉夕陽村舎と呼ばれていましたが、のちに茶山が福山藩の儒官となり、黄葉夕陽村舎が郷校となったため、廉塾に改称されました。昭和28(1953)年に国の特別史跡に指定されています。

明倫館(山口県萩市)

明倫館(山口県萩市)

享保3(1718)年、萩藩第6代藩主毛利吉元が萩城三の丸追廻し筋に創建した藩校です。嘉永2(1849)年には、第14代藩主毛利敬親の藩政改革に伴い萩城下江向へ移転しました。現在は、萩市立明倫小学校の敷地内となっており、有備館・水練池・聖賢堂などの遺構が残っています。昭和4(1929)年に国の史跡に指定されています。

松下村塾(山口県萩市)

松下村塾(山口県萩市)

天保13(1842)年に松陰の叔父、玉木文之進が自宅で私塾を開き、松下村塾と名付けました。安政4(1857)年には藩校明倫館の塾頭を務めた吉田松陰が引き継ぎましたが、安政5(1858)年に松陰の野山獄への再投獄に伴い廃止されました。萩市の松陰神社の境内には、修復された当時の建物があり、大正11(1922)年に国の史跡に指定されています。

多久聖廟(佐賀県多久市)

多久聖廟(佐賀県多久市)

元禄12(1699)年に佐賀藩の家老職にあった多久4代領主・多久成文によって、創設された佐賀藩の郷校(学)である東原庠舎(鶴山書院)の聖堂で、宝永5(1708)年に完成しました。大正10年(1921)年には、国の史跡に指定され、昭和25(1950)年には建物が国の重要文化財に指定されています。

鳴滝塾(長崎県長崎市)

鳴滝塾(長崎県長崎市)

文政7(1824)年にシーボルトが長崎郊外に創設した私塾で、診療所も兼ねていました。木造2階建てで書庫などがあり、庭には日本各地でシーボルトが採取した薬草類が栽培されていました。ここでは西洋医学や自然科学など科学の幅広い分野が教えられていました。大正11(1922)年に国の史跡に指定されています。